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突然終了してしまった哀愁の国産ニアセブン「鈴商スパッセ」

日本では1960年代後半~1990年代前半にかけ、「自動車メーカーになりたくても監督官庁が許してくれなくてなれない」という時期が長く続きました。1990年代後半から当時の運輸省が新興自動車メーカーを認めるようになりましたが、そのさなかに短期間ながら自動車メーカーとして存在してスポーツカー『スパッセ』を販売、未来的フォルムの『スパッセV』も発表したものの、2011年に突然廃業してしまったのが名古屋の『鈴商』です。

30年間新たな『自動車メーカー』の誕生を許さなかった日本

日本では明治時代の1911年(明治44年)に創業した快進社(合併・再編を経て現在の日産やいすゞの前身となった企業の1つ)をはじめ、戦前には既に自動車産業が誕生しており、第2次世界大戦後にも戦前からの大メーカーのみならず、中小・零細の自動車メーカーが多数誕生しては消えていきました。

しかし1950年代から1960年代前半にかけ、当時の通商産業省(現在の経済産業省)が自動車を日本の基幹産業と位置づけ国際競争力をつけさせるため、国内競争で共倒れになる前にわずか数社に統合合併させようという動き(特振法案)が出てきます。

自由競争の中で成長しようとする自動車メーカー各社は相次いで反発したため、国が主導する形での自動車業界再編こそ断念されたものの、現実に以下のような動きが起きました。

1963年:軽トラック『T360』スポーツカー『S500』を発売した本田技研工業を最後に、新たな自動車メーカーが認可されなくなる。
1965年:ホープ自動車、軽自動車生産から撤退。
1966年:プリンス自動車、実質敵に日産へ吸収合併され消滅。
日野自動車、トヨタと提携し傘下入り、翌年独自乗用車生産終了。
1967年:ダイハツ工業、トヨタと提携し傘下入り(自動車メーカーとしては存続)。
1970年:愛知機械工業、『コニー』ブランドの軽自動車生産終了、日産下請けに専念(2012年に完全子会社化)。

1970年の『コニー』消滅をもって、自動車メーカー、特に一般向け乗用車メーカーは9社に統合されたのです(トヨタ、日産、いすゞ、ダイハツ、三菱、マツダ、スバル、スズキ、ホンダ)。

その後も独自の自動車を開発しては自動車産業へ参入を目指す例(童夢など)はあったものの、自動車メーカーになるためには生産した車に型式証明が出ねばならず、管轄する運輸省が全て門前払いにしていたため、いずれもカスタムカーやレーシングカーなどを作るに留まりました。

これをもって日本の自動車文化の多様性が損なわれた、という批判もありますが、現実問題としてGMなしで乗用車部門を存続できなかったいすゞ、クライスラーと提携した三菱、フォードと提携したマツダなど、1960年代から21世紀に至るまで単独で自動車メーカーとして存続できた例はトヨタとホンダくらいだと思えば、あながち間違いではなかったかもしれません。

自動車メーカー設立解禁で名乗りを上げた名古屋の『鈴商』

しかしホンダ以降も日本の自動車メーカー設立が皆無だったか…といえばさにあらず、厳密には自動車というより『原動機付4輪自転車』に近い50cc1人乗りの『ミニカー』という超小型車は参入ハードルが低かったため、そこで地力をつけたのが富山の光岡自動車。

ミニカーに続き日産・シルビアを大改造した初代『ラ・セード』(1990年)などカスタムカーや旧車のレプリカなどで技術や販売実績を蓄積し、完全オリジナル自動車『ゼロワン』(1994年)が1996年に運輸省の型式認証を受け、1970年のコニー消滅以来26年ぶりに10番目の自動車メーカーとして誕生したのです。

どんな頑丈な堤防でもアリの一穴で崩れるとはよく言ったもので、それ以来自動車メーカー参入を目指す中小・零細企業が我も我もと運輸省(そして2001年以降は国土交通省)へ日参し、独自開発車の型式認証を受けて自動車メーカーとしての認定を受けていきました。

2004年に独自開発車『スパッセ』で型式認証を受け、『13番目の自動車メーカー』として名乗りを上げた『鈴商』(愛知県名古屋市名東区)もそんな新興メーカーの1つ。元は保険代理店の『鈴和損保』として1973年に設立、1976年に中古車販売店『マイカーセンター鈴和』を設立して翌1977年に『株式会社鈴和』として法人化、という流れは前述の光岡自動車と似ています。

単なる『町の中古車屋さん』というより輸入車や自動車用輸入部品を得意とした『輸入車ショップ』だったようで、スポーツカーやスパークプラグ、ブレーキパーツなど輸入品に精通し、自動車メーカーになった後も自社オリジナルカーにこだわらず輸入スポーツカー維持についてユーザーにアドバイスするなど、その道ではかなり知られる存在だったようです。

サスペンション開発に4年かけたという国産ニア・セブン『スパッセ』

2019年5月現在でも小型軽量、かつスパルタンなスポーツカーとして著名なイギリスのロータス7(セブン)、および生産能力の問題で製造権を譲られたイギリスのケータハム・スーパーセブンと南アフリカのバーキンセブンがあります。

上記3台がオリジナルの『セブン』、あるいはその発展型として認知されていますが、並列2人乗りの非常に狭いコクピット、フロントノーズに置かれたエンジンと中央を貫通したプロペラシャフトを介して後輪を駆動するデフなどを収めたボディは極限まで贅肉がそぎ落とされていました。

これにサスペンションとタイヤ、保安基準を満たすためのタイヤフェンダーやウィンカー、最低限の空力パーツが付与されただけの『セブン』はスポーツカーよりレーシングカーに限りなく近く、またそれゆえ似たようなコンセプトの車を作れば、どうしても同じような姿形になるのは致し方ありません。

こうした『セブン』同様のコンセプトで作られた類似車は『ニア・セブン』と呼ばれており、オランダの『ドンカーブート』やニュージーランドの『フレイザー』など世界中で作られ、ケータハムが『ケータハム・セブン160』を作る前から『フレイザーFC4』など日本向け軽自動車仕様も存在しました。

日本でもこのニア・セブンを作りたい!という声は当然あり、前述の光岡自動車が型式認証を取得した『ゼロワン』も外見は『セブン』と似ていますが、オリジナルのフレームやサスペンションにマツダ(ユーノス)・ロードスターと同じエンジンを搭載したニア・セブン。

そしてケータハム・スーパーセブンやバーキン・セブンの輸入販売を手掛けていた鈴商が開発して型式認証を取得したのも、フレームやサスペンションがオリジナルでS15シルビア用SR20DEエンジンを搭載したニア・セブン『スパッセ』でした。

『スパッセ』は見た目こそ『セブン』のサイクルフェンダー版(フロントフェンダー後端が後ろへ伸びず、自転車のフェンダーのようにタイヤを覆うのみで軽快)ですが、CADを使った完全独自設計で、意外とヤワな『セブン』の車体剛性を補い、腐食に強い素材を使った国産部品が多用されています。

特にプッシュロッド式サスペンションは4年の歳月をかけ開発された本格派で、全幅は本家『セブン』より70mmほど拡大。さらにSR20DEエンジンもオリジナルの電子制御燃料噴射式のみならず4連CRキャブへ換装されたバージョンもあり、最強スペックでは車重570kgに対して220馬力、パワーウェイトレシオは2.59kg/ps!

まさにそれまで『セブン』のプロフェッショナルだった経験を活かして作った、入魂の一作でした。

幻のスーパーカー『スパッセV』、そして夢の終焉

鈴商は単にニア・セブン『スパッセ』で満足したわけではなく、目標はさらに高いところにおいていたようで、2009年の東京モーターショーにはマツダスピード・アクセラ用の2.3リッター直4DOHCターボをミッドシップに搭載、前上方に開くバタフライドアを持つクローズドボディの2ドアスーパーカー『スパッセV』を出展しました。

販売価格500万円はリーマンショック世界恐慌直後とあって少々高めだったものの、少量生産スポーツカーとしてはしごく常識的、むしろ安価とさえ考えられる内容だったので、販売開始が待ち焦がれ、小さな鈴商ブースには大きな夢が詰まっていたのです。

しかし鈴商の栄光はここで終わり、スパッセVもこれっきりで終了。2011年7月9日、鈴商は突然店頭に『小藩の事情等により』と休業の貼り紙を出し、それを最後に事実上消滅してしまいました。

創業者(社長)が入院して会社としての存続が困難になったとも言われますが、零細企業や個人事業の宿命のような話で、何が起きたにせよ事業存続の道を探る間もないほど突然の出来事だったのでしょう。

過去でも現在でもオリジナリティあふれて本当に格好いいスポーツカーやスーパーカーが市販目前までこぎつけながら果たせず消えていった例は数多ありますが、鈴商のように会社がある日突然休業して何もかも終わった、という例は珍しいかもしれません。

こうして鈴商は、「自動車メーカーとは始めるのはともかく、続けていくのがいかに難しいか」という好例に加わり、今に至っています。