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生き残れなかった戦前の名門国産車メーカー「オオタ自動車工業」とは

現存する日本の自動車メーカーは最初から自動車メーカーとして創業したわけではなかったりして、特に乗用車は戦後に進出した例が多かったりします。戦前から続く乗用車メーカーといえばトヨタや日産(ダットサン)ですが、第2次世界大戦前にダットサンと小型乗用車市場を争った名門ながら、戦後はモータリゼーションまで持ちこたえられずアッサリ退場してしまったのが『オオタ自動車工業』でした。

20世紀初頭、勃興期の日本自動車産業でもがきつつ生まれたオオタ

日本における自動車は19世紀末に輸入された4輪自動車や2輪のオートバイから始まり、20世紀初頭には『山羽式蒸気自動車』(1904年)、初の国産ガソリン自動車『タクリー号』(1907年)など国産車が登場し、1911年には日本初の国産車メーカー『快進社』(後の日産やいすゞの前身のひとつ)も創業します。

ただし1910年代までの国産車は個人や個人事業者レベルで少数生産されたものが多く、初めてまとまった数が量産されたのは1919年に三菱造船神戸造船所(後に三菱内燃機を経て現在の三菱自動車の源流)で22台が生産された『三菱A型』で、1920年代になると白楊社(1912年創業)のオートモ号が1925年から量産されて輸出もされるなど、ようやく本格的な国産車産業が育ち始めました。

この記事で紹介される『オオタ自動車工業』の源流もこの頃にあり、国産飛行機開発に協力していた太田 祐雄が東京の巣鴨で個人の工作工場『太田工場』を設立したのが1912年。当初はオートバイ用のピストンやピストンリング製造、航空機用エンジンの試作などを手がけていた太田でしたが、1917年に神田へ工場へ移転した頃から小型乗用車の試作を始め、1922年に初のオオタ車『OS号』を完成させました。

早速このOS号を量産販売しようと『国光自動車』を設立した1923年関東大震災で被災、唯一焼け残った1台のOS号以外は工場その他ほとんど全てを失い、震災復興と共に『太田工場』を再創業して再起を図ります。快進社が大阪で『ダット自動車製造』として本格的に自動車メーカーとしての道を歩み始めた頃、オオタはまだ創業すらしていなかったのでした。

とりあえず自動車やオートバイ、産業用エンジンの修理をしながら小型乗用車用エンジンを開発、これを搭載した小型トラックを1931年に試作しますが、経営を安定させるスポンサーや自動車市場が未成熟だったこともあり、『オオタ』ブランドで小型トラックや小型乗用車の生産・販売を開始できたのは1933年。

同年にはトヨタの前身となる豊田自動織機製作所自動車部が始動しましたから、オオタが自動車に関わり始めてから市販車の発売までにだいぶ時間がかかり、戦前の自動車産業としては早くに創業していながら、実際にはかなりの後発組になってしまいました。

三井財閥というスポンサーを得て『高速機関工業』設立

小型トラックや小型乗用車の生産・販売を開始して自動車メーカーの仲間入りをしたとはいえ、当時の『太田工場』は太田の個人経営による町工場に過ぎず、いつ経営不振で消え去ってもおかしくない零細メーカーで、作っていたのも当時は無免許で運転できた750ccエンジンのトラックやバン、小型セダンやロードスターなどで、他に運転免許を要する中型バン程度。

しかし、前項で紹介したダット自動車製造を傘下に収めた新興財閥『日本産業グループ』の戸畑鋳物が1934年に『日産自動車』を設立、『ダットサン』ブランドの小型乗用車や小型トラックで成功を収め始めると、それを横目で見ていた三井財閥も自動車産業への進出を決定します。

三井財閥ではダットサン車と比較検討した結果、オオタ車が技術面・品質面でも優位と認めて出資を決め、1934年にオオタ車の販売代理店契約を結ぶとともに翌1935年には個人経営の『太田工場』から『高速機関工業』を設立させ、最新の生産機械を揃えた新工場を建設、1936年からオオタの小型乗用車と小型トラックの量産が始まりました。

同年に現在の神奈川県川崎市中原区の多摩川河川敷に開業した『多摩川スピードウェイ』で開催されたレースにオオタはワークス体制でレーシングカーを持ち込み、750cc以下の小型車クラスでダットサンを圧倒する1-2フィニッシュを決めて、「高性能小型車はオオタ!」と一気に売り込んだのです。

ダットサンをライバルにするも、ついに成長しきれぬまま戦争突入

レースで勝利したオオタに対し、奮起した日産側は翌1937年のレースで特殊なDOHCスーパーチャージャーエンジン搭載車で復讐を果たすも、あまりに特異な仕様で後が続かず、その後も戦争の激化で多摩川スピードウェイでのレース開催が中止されるまで、オオタは小型車レースのチャンピオンであり続けました。

市販車の方もヨーロッパ車に倣った設計を取り入れ、高剛性フレームにモダンな外観のオオタOD型を1937年に発売し、販売で先行していたダットサンを猛追撃します。

しかし、凝った設計で高価なオオタ車は「1にソロバン、2に電話、3にトラック『ダットサン』」のCMで国民車的に親しまれたダットサン車ほどの人気も知名度も得られず、さらに三井財閥の援助があったとはいえ後発で生産規模の拡充が追いつかないオオタ車は販売規模でも10倍近い差があって、ダットサンに追いつくのは当分先になりそうでした。

おまけに1931年に勃発した満州事変で始まった『15年戦争』は第1次(1932年)・第2次(1937年)の上海事変を経て1937年には中国(中華民国)との本格的な戦争『支那事変(日中戦争)』に発展してしまい、戦時色が濃くなる日本では庶民向け小型乗用車どころではなくなっていきます。

軍用に使える中型以上のトラック生産メーカーを優遇する1936年の自動車製造事業者法でも小型車生産能力しか持たないオオタ(高速機関工業)は冷遇され、1937年9月には立川飛行機の傘下となって軍メインとなり、1940年には乗用車、1942年には小型貨物車も生産を中止し、自動車メーカーではなくなってしまいました。

戦後の再出発に失敗したオオタ

1945年8月に第2次世界大戦が日本の敗戦で終結すると、立川飛行機傘下を離れた高速機関工業はオオタ車のメーカーとして活動を再開、1947年以降GHQ(占領軍総司令部)から段階的に乗用車の生産が解禁されると、オオタ車の生産を再開します。

その時期、トヨタであろうとダットサン(日産)であろうと戦後の一時期は自動車開発を禁止されていたため、生産再開にあたっては戦前・戦時中そのまま、あるいは外観はともかく技術的には同様の車を作るしかなく、オオタ車もその例外ではありません。

しかし、次第にオリジナルの新技術をモノにしていったトヨタや日産、新規参入して海外メーカーの自動車国産化(輸入部品を組み立てるノックダウン生産から国産化部品を使うライセンス生産への段階的以降)に乗り出した日野やいすゞと異なり、オオタは完全に乗り遅れました。

戦後も居座った立川飛行系系の経営陣が自動車に無知で無為無策だったことや、創業者・太田 祐雄の息子たちが離脱して人材不足に陥ったのが原因とも言われますが、本格乗用車開発前のステップとして高速機関工業からシャシーやボディの供給を受ける『たま自動車(後のプリンス)』への協力などで糊口をしのいでいるうち、自社オリジナル技術開発で致命的な遅れをきたしてしまったのです。

1952年にはブランドに合わせて社名を『オオタ自動車』に変更したものの、相変わらず戦前・戦中型の古臭いエンジンと構造の小型乗用車・小型トラックばかり作っているオオタが、トヨタや日産と並ぶチャンスは急速に失われていき、朝鮮戦争の特需にも預かれないまま1955年ついに倒産、翌年には創業者・太田 祐雄もこの世を去ってしまいました。

オオタの終焉と、最後のヒット作『くろがね・ベビー』

倒産したオオタは東急グループ傘下で経営再建が試みられ、1957年には『くろがね』ブランドで知られる戦前からのオート三輪/小型4輪メーカー『日本内燃機製造』(1932年創業)と合併し、『日本自動車工業』が設立されます。

社名からその名は再び消えたもののブランドとしての『オオタ』は継続、1.5t積みボンネットトラック『オオタKE』や同ライトバン『オオタVM』を同年に発売し、1,000ccOHVエンジンを搭載する『オオタ・プラネット(PL型)』も開発しますが、結局乗用車市場へのオオタ復活はならず、オオタKE/VMも1959年で生産終了、『オオタ』ブランドは完全に消滅してしまいました。

会社はその後もオート三輪や4輪トラックメーカーとして存続、1959年に社名を『東急くろがね工業』とするなど目まぐるしく変化し、1960年に発売した軽4輪トラック『くろがね・ベビー』はヒット作となり、オオタKE/VMの後継車『クロガネ・ノーバ』も発売されます。

しかし、結局ベビーは同年初代デビューの『ダイハツ・ハイゼット』、1961年初代デビューの『スバル・サンバー』『スズライト・キャリイ』『コニー・360コーチ』といった続々デビューする軽4輪トラックのライバルに対して販売力が弱く、ベビーの販売が好調だったのは発売から短期間のみ。

これでついに力尽きた『東急くろがね工業』は1962年1月に会社更生法の適用を申請して倒産、ベビーやノーバの生産もそこで終了してしまい、オオタ車の歴史もそこで完全に終止符を打たれてしまいました。

なお、会社はその後日産が支援・提携する形で1964年『東急機関工業』として再生し、1971年以降は日産用自動車部品メーカー『日産工機』と名を変え、2019年5月現在も現存しています。

戦前にはダットサン対抗馬の名門として日産の有力ライバルに成長する可能性もあった『オオタ』ですが、結局は1930~1950年代の日本自動車産業激動期を乗り切れずライバル傘下で命脈を保つという、草創期国産車メーカーによくあるパターンで終わりました。