スーパーカー

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渋さが光るイタリアン・スーパーカー、マセラティ

2019年5月現在ではSUVすら販売するなど高級スポーティ・ラグジュアリーカーのメーカーとして印象が強いマセラティですが、その長い歴史ではレースでの活躍、少数生産のスポーツカーや高級車メーカー、スポーツセダンやスポーツカーの量産で好評を得た時期もあれば、スーパーカーメーカーの一翼を担っていた時期もあり、なかなかに複雑です。おそらくは年代によっても、マセラティのエンブレムである『トライデント』で連想するものは大きく異なるのではないでしょうか。

はじまりはマセラティ兄弟が始めたレーシングカー・メーカー

イタリアの高級スポーティ・ラグジュアリーカーメーカー、マセラティ。その歴史は自動車メーカーというより純粋なエンジニアリング企業として始まり、マセラティ兄弟の長男カルロ・マセラティが1908年に設立した航空機用エンジンメーカーを発祥とします。

それまでカルロやフィアット、ビアンキ、イソッタ・フラスキーニといった自動車メーカーを転々としてはレーシングカーに関わる技術を蓄積していきますが、残念ながら1910年、29歳の若さで早逝、会社は四男のアルフィエーリへ引き継がれました。

1914年12月、六男エットーレ、七男エルネストと共にボローニャで『ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ』を設立、この会社が現在のマセラティにおける直接の源流とされています。

ただしその5か月後にはイタリアも第1次世界大戦に参戦したためレースどころではなく、航空機用エンジンのスパークプラグなど軍需生産に従事、五男マリオがデザインした『トライデント』エンブレムを得たマセラティがレースに躍り出るのは第1次世界大戦後となりました。

もっとも最初はイソッタ・フラスキーニの車をベースにしたレーシングカーで参戦するレーシングカー・コンストラクターで、その実力を見込んだディアット社から依頼を受けたレーシングカーを開発、経営不振でレース活動を休止した同社からそのまま引き取ってマセラティの名を与えたのが、マセラティ車の始まり。

同時期、社名を『オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ』としたものの1932年に実質的な創業者である四男アルフィエーリが死去してしまうという悲しみに包まれました。

この頃、スポーツカーとレーシングカーとはほぼ同義語であり、好成績を上げたレーシングカーを公道仕様に仕立てて希望するユーザーへ販売することが多かったのですが、既に自動車が安価に大量生産される時代において、このような非効率な自動車生産ばかりしていては生き残れません。

マセラティもレースでの好成績とは裏腹に経営状態は悪く、1937年に事業家アドルフ・オルシへ会社の経営を売り渡し、残るマセラティ兄弟(次男ビンド、六男エットーネ、七男エルネスト)はレーシングカーの開発に専念することとなりました。

この体制下で1939年、ナチス・ドイツ政府のサポートを受けたメルセデス・ベンツなどドイツ車勢が猛威を振るうヨーロッパを避け、アメリカに活路を見出したマセラティはインディ500で初優勝を飾り、『アメリカで権威のあるモータースポーツタイトルを獲得した、初のイタリア車』の栄誉を受けました。

第2次世界大戦後、高級グラントゥーリズモ路線の開始

1939年にヨーロッパで戦火が上がった翌年、イタリアは第2次世界大戦に参戦してマセラティはまたもスパークプラグなど軍需生産へ専念せねばなりませんでしたが、1943年にアッサリ降伏して連合軍側へ回ったためドイツや日本より復興は早く、1946年3月にはマセラティ初の高級グラントゥーリズモ、2ドアクーペの『マセラティA6』を発表しました。

同年にレースも再開、1950年から開催されたF1GPにも参戦し、1953年最終戦ではファン・マヌエル・ファンジオの駆るマセラティ250Fがフェラーリを破って優勝、1956年にもスターリング・モスの駆るマセラティがファンジオのフェラーリと激しいタイトル争いを繰り広げ、当時のモデナ市民を2分する人気だったと言われています。

その一方、オルシへ経営権を譲っていたマセラティ兄弟は彼らにとって理想的な小排気量スポーツカーのメーカー『オスカ』を設立して独立、1967年にMVアグスタへ事業を売却するまでの20年間、数々の名車を送り出しました。

そのため前述の『マセラティA6』におけるマセラティ兄弟の関与は限定的で、初期に1.5リッター、後に2リッターの直列6気筒エンジンを搭載するグラントゥーリズモはピニンファリーナがデザインしたボディを載せ、市販量産車へ進出したマセラティ初期の傑作となります。

ただしA6はあくまで少量生産車であり、真の意味でマセラティ初の量産車となったのは1957年に発表された『マセラティ3500GT』で、デチューンされたレース用エンジンと、無理に自社製にこだわらず信頼性の高いパーツを集めて構築された4シーターグラントゥーリズモは『スポーツカー並の速さと信頼性、快適性』を実現する事に成功。

この3500GTでマセラティは高級スポーツ・グラントゥーリズモとしてのブランドイメージを構築し、現在までの『マセラティ』ブランドの基礎を築きます。

フラッグシップサルーン『クアトロポルテ』誕生とシトロエン傘下入り

1963年には同社初の4ドアサルーン『クアトロポルテ』を発表し、ピエトロ・フルアがデザインした流麗なボディと当時のサルーンとしては高性能の最高速230km/hを実現、スーパーカー並の性能を持つ高級サルーンとして話題を呼ぶとともに、マセラティはスポーツカー一辺倒ではないスーパーカーメーカーとして異色の存在になりました。

ただし、1957年に伝統的公道レース『ミッレ・ミリア』で観客を巻き込む大事故が起きたのを契機にマセラティはレースのワークス活動から撤退、その後も超軽量レーシングスポーツのティーポ60『バードケージ』やティーポ63といった優れたマシンを生み出し、マセラティ車そのもののレース参戦はなくならなかったものの、マセラティのワークス参戦はしばらく途切れます。

さらにこの時期、スーパーカーメーカーとしてマセラティの名声を高めたのは、パーレビ朝時代イランのパーレビ国王からオーダーされた、3500GTをベースにマセラティ450S用エンジンをさらに拡大した5リッターV8DOHCエンジン(325馬力)搭載の『シャー・オブ・ペルシャ』ことマセラティ5000GTでした。

現在でもアラブの富豪がオイルマネーにモノを言わせてハイパーカーやスーパーカーを買い漁る光景に通じるものがありますが、いずれにせよスーパーカーの発展に富裕層の存在は欠かせません。

しかし華々しいスーパーカーやスーパーサルーンが続々と登場する裏側でマセラティの経営は必ずしも健全とは言えなかったようで、オルシが最高経営責任者に留任しつつも、1968年にマセラティはフランスのシトロエン傘下へ入るのでした。

オイルショックの余波でデ・トマソ傘下へ

シトロエン傘下となったマセラティは、『大変パワフルだがメカニズム的には時代遅れになりつつある』という評判を払拭すべく新技術と資金を導入し、シトロエン傘下らしく油圧サスペンションを導入したり、1971年に発売した『いかにもスーパーカー』なミッドシップ2シータークーペの『ボーラ』では同社初の4輪独立懸架を採用しました。

日本でスーパーカーブームが巻き起こったのはこのボーラやV6エンジン&2+2シーター仕様『メラク』が販売されていた頃で、日本でも『スーパーカーのマセラティ』が強く印象に残された時代です。

ただしその直後の1973年、第4次中東戦争の余波による第1次オイルショックで販売台数が極端に減少、マセラティどころか親会社のシトロエンすら破産してプジョーとの統合(現在のPSA、プジョーシトロエン)に至り、1975年には突然マセラティの清算が発表されました。

ただちにモデナ市やイタリア政府の支援を受けたマセラティは消滅を免れ、同じくスーパーカーメーカーのデ・トマソ傘下に収まったものの、この時期のマセラティはデ・トマソ・ロンシャンのエンジンをマセラティ製に換装した『キャラミ』など魅力の薄いモデルしか発売できず、ボーラやメラクの販売不振もあって低迷してしまいます。

『ビトゥルボ』シリーズでの復活

それでも、1979年にデ・トマソ・ドーヴィルのホイールベースを延長した4ドアスーパーサルーン『クアトロポルテIII』などで持ち直すと、1981年により手頃な大量生産モデル『ビトゥルボ』を発表。

BMW3シリーズ並の小型ノッチバッククーペながら高級な内外装を持ち、車名(ビトゥルボ=英語では『ツインターボ』)の由来となった2リッターV6SOHCツインターボは小排気量ながら最高速215km/hをマーク、1980年代マセラティの救世主となりました。

何ぶん低迷期のマセラティで作られた初の量販車と言えるモデルだっただけに品質や信頼性の面で大きな問題を抱え、1980年代後半バブル景気の時代に日本へ持ち込まれたビトゥルボなど『トラブルの塊』『典型的なイタリア車』と散々な評判が立つものの、完調ならば高性能と高品質を味わえるイタリアンGTカーを見捨てないファンも大勢いたものです。

ビトゥルボ系は2ドアクーペ以外に4ドアセダンや2ドアスパイダーも発売され、さらにカリフやギブリII、クアトロポルテIVのベースにもなって、1990年代までのマセラティを支える最重要モデルでした。

フィアット傘下となり現在に至る

1989年、デ・トマソから実質的にフィアット傘下となったマセラティは1993年には完全に子会社となり、1997年から2005年までの一時期、フィアットグループのフェラーリ傘下に収まっていた以外はフィアットグループの一員として、現在はアルファロメオと並ぶ同グループの高品質高級車部門となっています。

ビトゥルボとその発展型という1980~1990年代マセラティからの決別は1998年に発表された『3200GT』によって始まり、変わらずトライデント・エンブレムを備えつつも近代的なデザインは現在の新たな『クアトロポルテ』や『グランツーリズモ』、そして同社初のクロスオーバーSUV『レヴァンテ』にも受け継がれてました。

2004年には当時親会社だったフェラーリの『エンツォ・フェラーリ』から一部コンポーネントを流用したレーシング・クーペ(保安基準や排ガス規制に適合させれば公道走行も可能)な『MC12』を発表、FIA-GT選手権にも参戦して2006年にはシリーズ総合優勝を果たしています。

このように紆余屈折を経て現在の姿になったマセラティですが、フィアットグループの重要な一員として高級スポーツ路線は健在であり、一時期親会社だったフェラーリともまだ密接な関係にあります。

多くのイタリア車と同様、1980~1990年代には高いブランドイメージに対してあまりにも低い信頼性に苦しめられましたが、さすがに現在では「1年の大半が整備中」「トラブルで持ち込んだら新車に交換してもらった」という悪評は聞かなくなりました。今後はフェラーリやアルファロメオ同様、高級車市場が活発な日本でより存在感を増してくるものと思われます。