トラック重機

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機械遺産にもなった元祖国産ブルドーザー『G40 小松1型均土機』

現在では世界中で使われている日本製の建機や重機ですが、太平洋戦争(1941~1945年)前までは能力に対してコストが高すぎる、あるいは人件費が安すぎたこともあって日本では普及に至らず、国産機もほとんど出現していませんでした。戦争になって短期間に土木工事が可能な建機がようやく見直されたものの時既に遅し、ほとんど役には立ちませんでしたが、戦後復興の礎となる国産建機はいくつか登場、その代表的なもののひとつで機械遺産にも認定されているのが今回紹介するG40ブルドーザー、小松1型均土機です。

コマツテクノセンタで余生を送る機械遺産、小松1型均土機

伊豆半島のど真ん中を走る伊豆スカイラインを冷川ICで降り、さらに車で数分。山中に突然現れる広大な敷地に「コマツテクノセンタ」があります。コマツ(小松製作所)が作る各種建設機械のデモンストレーションエリアを持ち、最新設備を備えた施設の一角に、古めかしいものの明らかにブルドーザーとわかる大きなブレードを持つ機械が1台。これが日本機械学会から認定された機械遺産 第18号、コマツブルドーザーG40こと「小松1型均土機」です。

太平洋戦争中に軍部からの緊急要請で急遽量産の決まった小松1型は、それまで牽引車(トラクター)や戦車改造の試作止まりだった国産ブルドーザーの量産第1号であり、戦局に大きな影響を与えなかったものの戦場へ送られて外地で活躍。

敗戦後は全て兵器として処分されたと思いきや、なんとフィリピンで米軍に海没処分されたはずの1台が引き上げられて、どのようないきさつをたどったものか戦後もオーストラリアで長く使われていたものが1979年に発見され、日本に帰ってきてコマツテクノセンタで展示されるようになりました。

連合国側だったオーストラリアには米軍やオーストラリア軍払い下げのブルドーザーなどいくらでもあったでしょうし、性能も立派だったはずですから、なぜ性能不足の小松1型をわざわざ使っていたのか不思議に思いますが、おかげで今でも国産建機/重機史に華を添える歴史的証人となっています。

関東大震災や満州事変以降に進んだ機械化

そもそも日本における重機や建機の歴史はどのように始まっていたのか?18世紀からの産業革命期に実用化された蒸気機関を活かし、世界初の農業用蒸気機関が誕生したのは1849年といいますからまだ江戸時代の話。

明治維新の頃には既にクローラ(一般的にキャタピラーと言われている無限軌道)を使ったトラクター(牽引車)が登場、19世紀末には蒸気機関に代わって内燃機関(ガソリンエンジン、後にディーゼルエンジンも)が動力となり、アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)が1906年に内燃機関で無限軌道を駆動するトラクターを開発。このホルト・トラクターは非常に実用性が高く世界中で使われるベストセラー化、その後のクローラ式重機/建機や戦車など軍用装軌車両の元祖になりました。

1917年、第1次世界大戦の西部戦線で弾薬輸送用に使われていたトラクターを見聞していた武官からの報告で、日本陸軍も従来の馬匹輸送に代わる強力な牽引手段としてトラクターに着目し、数台を輸入して比較試験を行ったのが日本における重機/建機の始まりです。

それから6年後の1923年、関東大震災で壊滅した東京にトラクターを含む多数の輸入建機が投入されて土地区画整理事業などに威力を発揮しますが、まだ含まれていなかったブルドーザーが開発されたのはちょうどこの年。

さらに日本では1931年に勃発した満州事変によって、中国東北部に「満州国」を建国、多数の建機を当時、大規模開発事業を目指す一方、世界恐慌の影響で深刻だった失業対策のため、国内でも道路整備が始まりました。

しかし当時、というより自家用車などほとんどなかった1950年代までは建機や重機など操作できる者も整備できる者もほとんどいない状況で、機械化など行っても大規模効率的な土木工事はできますが、失業対策にはなりません。結局、雇用確保を最優先としたため機械化は遅れてしまったことが、後々影響することになってしまいます。

国産牽引車の登場

しかしそんな中でも、輸入に頼っていた建機/重機を国産化しようという動きはあり、関東大震災が起きた1923年には初の国産トラクターが軍用装軌式牽引車として開発され、部隊配備も開始。1931年にはコマツ(小松製作所)がガソリンエンジン式の農業用トラクターG20を試作、これは失敗に終わったものの翌年再起をかけたG25が軍以外にも採用されて量産化されています。

コマツはこの時期1935年に満州での開拓需要を当て込んだ大型のG40を開発したものの、大型建機でガソリンエンジンはディーゼルエンジン建機に燃料のコスト面で太刀打ちできず、1938年に国産初のディーゼルエンジン搭載トラクターG35を開発。

コマツ以外にも石川島自動車製作所(現在のいすゞ)や東京瓦斯電気工業(同じく現在のいすゞや日野自動車などの源流)が軍用トラクターを開発、採用されており、1930年代は国産トラクターが続々誕生、激化する中国との戦争にも投入されて、戦訓による改良で性能や実用性を高めていきました。

対ソ戦用に開発の始まった国産ブルドーザー

1940年9月、コマツは陸軍からある特殊な建設機械の開発を依頼されました。雨季には泥濘となって歩兵にせよトラックにせよ、さらには戦車など装軌車両ですら走破困難となる満州(中国東北部)の湿地帯に道路を建設すべく、牽引車の前面に排土板(ドーザーブレード)を装着した建機、軍機名「道路用牽引車」すなわちブルドーザーです。

当時の日本陸軍は満州国と国境を接するソ連と1939年の5月および9月、2回にわたって国境で武力衝突を起こした「ノモンハン事件」の直後であったことや、それ以前から仮想敵国だったソ連に対処するため、中国東北部などの湿地帯を走行できる特殊装軌車「湿地車」を開発するなど、対ソ戦の準備に熱心でした。

しかし日本陸軍はノモンハン事件で、後に通説となったほど大敗北でこそなかったものの明らかに大苦戦、「湿地車」で投入できる戦力程度ではどうにもならないことから、対ソ戦のためには何としても満州に軍用道路を、それも早期に建設する必要があります。

対ソ戦は1941年4月に日ソ中立条約を結んだり、同6月にドイツがバルバロッサ作戦を発動、ソ連をモスクワ陥落間近まで追い込む独ソ戦に合わせ関東軍(在満州日本陸軍)が進行準備「関特演(関東軍特種演習)」を始めるなど緊張緩和と開戦間近を繰り返しました。

しかし結果的に日本軍が攻め込んだのはソ連ではなくフィリピンやイギリス領マレー(現在のマレーシアなど)、オランダ領東インド(現在のインドネシア)であり、1941年12月の太平洋戦争開戦に伴って、既に図面が完成していた国産ブルドーザーは不要不急として開発中断されてしまいますが、これが致命的な判断ミスだったのです。

戦地で見た時には時既に遅し

太平洋戦争開戦早々に快進撃を続ける日本陸海軍の中で、唯一大苦戦したウェーク島を攻略したのは1941年12月23日。占領した日本海軍攻略部隊はアメリカ軍の捕虜を使役して飛行場や防御陣地の修復・構築に利用しようとしますが、そこで捕虜の1人から「なんであれを放置して使わないんだ?」と指さされた、一台の建機がありました。そう、ブルドーザーです。

当時の日本にはまだ1台もない機械、どう動かすかもわからないので捕虜に運転させたところ、人力で何日もかけ再建する予定だった飛行場の整地がまたたく間に終わり、占領部隊は仰天しました。

同じような光景は占領した各地で見られ、捕獲したブルドーザーは現地で大活躍する虎の子として重宝される一方、捕獲できなかった占領地や新たに飛行場や陣地を建設する場所では相変わらず人力メインな日本軍でしたが、それでも連合軍が反撃を加えてくるまでは守備隊や現地民からいくらでも人手を使えたので、人海戦術でなんとかなっていたのです。

しかし1942年8月、ガダルカナル島(現在はソロモン諸島の首都)への侵攻で連合軍が反撃に転じると、多数の建設機械を持ち込み、飛行場や陣地をすぐさま作ったり修理してしまう連合軍に対し、モッコやツルハシを振るい何をするにも人力の日本軍では勝負になりません。

慌てた海軍は1942年12月、コマツなどに「やっぱりブルドーザーを作れ、それも大急ぎで」と命令を出すという泥縄ぶりでしたが、1ヶ月半と定められた無理な納期に応えたコマツはG40トラクターに油圧式排土板を取り付けたG40ブルドーザーを突貫作業で作り上げたのです。

初の国産ブルドーザー小松1型、戦場へ

太平洋戦争前に設計していた「道路用牽引車」の試作を続け散ればこんな泥縄にはならなかった話で、実際戦前の図面を元に試作開発を再開した陸軍向けブルドーザー「トイ車」は1943年3月に早くも完成しています。

同1月に完成したG40ブルドーザーは「小松1型均土機」として採用、早速アリューシャン列島のアッツ島に送られましたが、同年5月にアッツ島は連合軍に奪還され、小松1型も到着しないまま行方不明になりました。

以降、小松1型にせよ「トイ車」にせよ作るそばから陸軍の「飛行場設定隊甲」や海軍の「機械化設営隊」に配備されて南方に送られましたが、1943年以降前線に向かう輸送船の潜水艦や航空機による被害が相次いでおり、せっかくのブルドーザーも多くが海に沈んでしまいます。

コマツのほかにも久保田鉄工(現在のクボタ)や日立製作所、鐘淵デイゼル(現在のUDトラックス)などがブルドーザーを作っては軍に納入しましたがもはや時既に遅し、戦局への寄与は間に合わず、1945年8月15日の敗戦を迎えてしまいました。

敗戦、しかし小松1型の設計図は残った

太平洋戦争で完膚なきまで敗北した日本でしたが、今度は海外の戦場や占領地、手放さなければいけない植民地から軍民多数の国民を受け入れなくてはならず、農地の急速開墾や住宅地建設のため、戦時中以上に多数の建機が求められ、急速生産の大号令がかけられました。

ここでもコマツは終戦直後に焼却処分していたはずの小松1型はじめ、開発したブルドーザーの図面を残していたため、戦後すぐに戦時中に試作した小型ブルドーザー「トロ車」をベースにした新型「D50ブルドーザー」が、1947年秋には完成しています。

国が音頭をとった大開墾事業は、燃料の横流しに怒ったGHQ(連合軍総司令部)が農業用機械への燃料割当をカットするという「ブラウン旋風」に悩まされて頓挫しましたが、D50ブルドーザーはじめ戦後型ブルドーザーは、国土復興へ大いに役立ちました。

紆余屈折があって開発が遅れ、戦争にはさして役立たなかった国産ブルドーザーですが、戦後になって戦中の実績を活かし、日本国再建の礎になることはできたのです。伊豆半島の山中、コマツテクノセンタで展示されているG40ブルドーザー小松1型均土機は、そうした歴史の荒波を今も静かに、無言で語り続けています。