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幻に終わったダイハツ渾身のライトウェイトスポーツ、X021

ダイハツX021

スーパーカーやスポーツカーにはおよそ縁がなく、軽自動車やコンパクトカーのメーカーとして専念している感のあるダイハツ工業。しかしかつてはイタリアンデザインの小型車『コンパーノ』で名を馳せ、日本グランプリで小型グランプリカーを走らせた時期もある個性的なメーカーでした。1990年代にもその個性は存分に発揮され、市販こそかなわなかったものの世の注目を集めたスポーツカー、X021を生み出しています。

『軽とコンパクトのダイハツ』が独自性を存分に発揮した1960年代

今やトヨタの完全子会社であり、軽自動車やコンパクトカー、それらをベースとした新興国向け低価格車部門となっているダイハツ工業。

しかしそのような路線へ転換したのは1967年にトヨタと業務提携、工場の稼働率を上げるためトヨタ車(パブリカなど)を生産する下請けメーカーとしての立場を受け入れてからです。

むしろトラック・バス専業となった日野や、日産の完全下請けとなって独自車種の開発から撤退したコニー(愛知機械工業)などと異なり、提携以降も軽自動車やコンパクトカー、商用車のみとはいえよくぞ独自性を保ったと評価されるべきかもしれません。

そんなダイハツが創業したのは1907年、発動機(エンジン)メーカー『発動機製造』としてのスタートで、1931年以降は3輪トラック、1937年以降は4輪トラックにも進出し、もちろん本来のエンジン屋としてもディーゼルエンジンなどを特異として、日本の軍需を支える重要メーカーの1つでもありました。

第2次世界大戦後の民需転換にもうまく適合し、戦前以来のオート3輪のほか、軽自動車規格が作られると1957年には軽オート3輪の名車『ミゼット』シリーズを発売、中小零細メーカーがひしめくオート3輪市場で生き残っていきます。

同時期には小型トラックやマイクロバスで戦後も4輪車メーカーとして立ち上がり、1963年には『コンパーノ』で乗用車にも進出。

このコンパーノは頑丈なラダーフレームへボディを載せる旧弊な構造ではありましたが、むしろそれを生かしてベルリーナ(セダン)/トラック/ライトバン/スパイダー(オープンスポーツ)と多彩なラインナップを発売。

国産乗用車で初めて機械式インジェクション(燃料噴射装置)を採用するなど、野心的なメーカーであると同時に、軽オート3輪から軽4輪トラック/バンなど軽商用車や軽乗用車へも抜かりなく進出して着実に足場を築いていきました。

企業としては地味なれど、なぜか許された派手なモータースポーツ活動

元がエンジン屋、トラック屋で乗用車も軽自動車や小型大衆車を着実にラインナップして冒険せず、よく言えば堅実、遠慮なく言えば地味な自動車メーカーだったダイハツ工業ですが、他の自動車メーカーが市販車の性能をアピールする場として活用した『日本グランプリ』には企業としてあまり興味を示しませんでした。

そんな事より商人の道具、庶民の足を確実に作るのを社是としているようでしたが、不思議なことに企業として全面的なバックアップこそしないものの、社内の異端事業的なモータースポーツ活動に歯止めをかけなかったのも事実です(予算も回しませんでしたが)。

ラダーフレームへボディ架装という古めかしいコンパーノの構造を逆手に取って空力を改善したボディを載せ、エンジンも市販車の1,000ccOHVから1,300ccDOHCへチューンナップしていくなど改造を加えた試作車『P1』および『P2』を経て、1966年の第3回日本グランプリへ小型グランプリカー『ダイハツP3』で出場。

さらにクラッシュしたポルシェのレーシングカー修理を見学に行くなど、ちょっとセコイ『見よう見まね』ながら、P3とは全く異なる鋼管パイプフレームにガルウイングドアを持つ軽量ボディを載せ、P3用をさらに改良したDOHCエンジンをミッドシップにマウントした『P5』まで作ります。

P5は排気量こそ小さく小型だったものの構造的にはグランプリ用本格レーシングカーそのもので、ダイハツがトヨタと提携して事実上傘下となる1960年代末までレースで活躍しました。

凝りぬダイハツモータースポーツ魂、X021を1991年に発表

その後しばらく、ダイハツは『親方』にあたるトヨタの指導でトヨタ車の下請け生産と、自動車メーカーとしてはトヨタが作っていない軽自動車メーカーへ専念させられ、初代シャレード(1977年)までは独自のコンパクトカーすら作れなかったほどの時代が続きました。

しかし『企業としてはともかく社内の独自活動まで止めない自由な風土』は継続しており、事実上のダイハツワークスたるDRS(ダイハツレーシングサービス)と、その母体であるDCCS(ダイハツ・カー・クラブオブ・スポーツ)によるモータースオーツ活動は継続。

トヨタの下請け生産だったパブリカ(2代目)へダイハツ独自のエンジンを搭載した『コンソルテ』や、旧型カローラのプラットフォームを使った独自セダン『シャルマン』、そしてフルオリジナルの『シャレード』や軽乗用車『フェロー』が国内外のラリーで活躍します。

1984年には当時のWRC(世界ラリー選手権)で主力だったグループBマシンの中でも最小(排気量926cc)の『シャレード926ターボ』を200台限定で発売、サファリラリーはじめシャレードは国内外のラリーで走り回りました。

もちろん社内でもその間、正式プロジェクトというより事実上有志によるオリジナルのスポーツカー開発が進められており、ある程度形になったところでレーシングコンストラクター(レーシングカー開発メーカー)の『童夢』へ共同開発プロジェクトが持ちかけられます。

こうして1991年の東京モーターショーで発表されたのが幻のダイハツ製スポーツカー、『X021』でした。

エンジンこそロッキー用なものの、軽量俊敏な本格スポーツ『X021』

ダイハツが開発・販売したスポーツカーといえば1960年代の小型オープンスポーツ『コンパーノ・スパイダー』と、2000年代以降2代目の現在まで販売を続けている軽オープンスポーツ『コペン』、次点として軽2シーターオープンの『リーザスパイダー』(1991年)がよく知られています。

本来ならそこへもう1台加わっていてもおかしくなかった『X021』とはどのような車だったのでしょうか?

エンジンは直列4気筒SOHC16バルブ1,589ccで、スポーツカーという性格から後の4代目シャレード・デ・トマソ用HD-EG(125馬力)と勘違いされた事もありますが、実際にはクロカン4WDのロッキー用HD-E(105馬力)をそのまま流用して縦置き。

しかし平凡なのはそこだけで、童夢により本格的に手がかけられた乗車部分のフロアと前後の頑強かつ軽そうなフレーム、フロントにプッシュロッド式を使い、複雑なアームが張り巡らされたサスペンションなどレーシングカーそのもの。

リアサスペンション直前の2名乗車部分はロータス(ケータハム)スーパー7のようでもあり、その上から被せられた曲線の美しいカウルはGC(グラチャン)レーシングカーのようでもあり、まさに『和製レーシングスポーツ』の名にふさわしい出来でした。

スーパー7や『ニアセブン』と呼ばれる同種スポーツカーがそうであるように、軽量ボディと本格サスペンションを組み合わせればエンジンなぞ大した性能がなくとも十分面白い車になるのは確実と思われたのです。

歴史に埋もれて消えたX021

各部の仕上げこそ『手作りの実験車レベル』だったものの、走りの完成度は高くメディアを招いた試走でも絶賛されたX-021は市販が熱望されたものの、残念ながらそれっきりで終わってしまいます。

当時、オートザムAZ-1(A)/ホンダ・ビート(B)/スズキ・カプチーノ(C)という『軽スポーツABC』が発売されて活況を呈していたとはいえ、いずれも運輸省(国土交通省)とケンカしながらどうにか発売にこぎつけたようなモデル。

運輸省のみならず絶対的な『親方』トヨタの顔色も伺わねばならなかったダイハツにとり、トヨタの領分を侵しかねない上に、『本業』の大衆向けコンパクトカーや軽自動車販売へ影響を与えかねない本格スポーツカーなど、ゴーサインが出るはずもなかったのでしょう。

あるいは童夢がメーカーとなってダイハツがエンジン供給のみする形もありえたかもしれませんが、いずれにせよバブル崩壊と価値観の転換によるスポーツカー不遇の時代において、X021が生き残る事は困難だったかもしれません。

「ならばなぜ作ったのか?」と思われるかもしれませんが、1990年代までのモーターショーというのは2000年代以降の実用車、あるいは将来確実に実用化される車のデザインスタディを発表する場ではなく、『ウチでもこういう車を作れますよ』という技術発表の場でもありました。

X021もダイハツだってその気になれば!というアピールの1つとして発表されたに過ぎず、後のFR-X(東京モーターショー1997で展示された850ccターボのFRスポーツクーペ)と似たような存在だったのでしょう。

「もしX021が発売されていれば」と想像を巡らすのは簡単ですが、ダイハツを、日本車を取り巻く文化や行政、社会的論理を考慮すると、ダイハツに求められた役割からしてX021は『最初からありえない車』であり、『情熱のやり場に困っていた社内のガス抜き的存在』だったのかもしれません。

その魂はコペンへ続き、ついにトヨタのお墨付きも

なお、プロジェクトが沙汰止みになって以降のX021は所在不明と言われていましたが、2000年代になって童夢の倉庫でホコリを被っているのが発見され、2005年に筑波サーキットで久々の全開走行を披露、衝突安全性能を除けばその時点でも通用しそうな性能が確認されたようです。

X021を開発するため童夢と組んだ共同プロジェクトが最終的にダイハツへ何を残したかは定かではありませんが、2000年代になってFFながらも軽オープン2シータースポーツ『コペン』へと姿を変え、地道に、しかし着実に長い歴史を紡ぎ続けています。

2019年になってトヨタも『コペンGRスポーツコンセプト』を東京モーターショーで発表したので、いよいよトヨタのお墨付きを得られたという事でしょう。新興国で需要があれば、あるいはX021のような車がまた作られる可能性も、皆無ではありません。