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ライバルメーカーなしでは盛り上がらない!モータースポーツ名勝負「独走クラウンと怒りのベレル」

ライバルメーカーなしでは盛り上がらない!モータースポーツ名勝負「独走クラウンと怒りのベレル」

戦後日本で本格的に開催された自動車レースの歴史は、1963年5月に完成して間もない開催された第1回日本グランプリをその嚆矢としています。当然初の名勝負もその中で行われましたが、まだ「レースとは何か?」が確立していない時代、各自動車メーカーのチーム同士で交わされた『紳士協定』を破ったトヨタが参加したクラスではブッチギリの勝利を収めます。C-VIクラスも結果的にはトヨタのクラウンが勝ちましたが、それを怒りの形相で追いかける1台のいすゞ・ベレルがいた事を忘れてはいけません。

戦後日本自動車レース史の始まり、第1回日本グランプリ

自動車レースの歴史は「世界で初めて、路上で2台の車が出会った瞬間に始まった」と言われているくらいで、およそ自動車に関わるものであれば抜きつ抜かれつのレースはいわば本能のようなものです。

日本でも自動車が少しずつ増えてきた1910年代には既に外国人や富裕層の駆る自動車でレースが行われていたと言われており、1936年には現在の神奈川県川崎市中原区の多摩川河川敷に初の常設サーキット『多摩川スピードウェイ』が開業、同年6月に『第1回全国自動車競走大会』が開催されました。

1941年12月からの太平洋戦争中は当然レースも中断されていましたが、戦後に復活すると二輪のレースなどで再開、ただし河川敷という立地や4輪でのモータースポーツは米軍基地内でのジムカーナが戦後すぐの主流だった事もあり、多摩川スピードウェイは1950年代はじめに廃止されてしまいます。

その後しばらく日本に舗装路の常設サーキットはありませんでしたが(未舗装の浅間高原自動車テストコースはあった)、ようやく戦後復興を果たすとともに国産車もマトモなものの生産が始まり、スバル360など国民車的な車も登場して一般大衆から自動車への関心が高まる中、1962年11月になってホンダが三重県に鈴鹿サーキットを建設。

そこで1963年5月3~4日の2日間にわたって開催されたのが『第1回日本グランプリ』でした。

破られた『紳士協定』

戦前に多摩川スピードウェイで開催されたレースでも日産(ダットサン)やオオタがワークス体制で参戦していた経験があるとはいえ、もう四半世紀以上前の話。

日本で、ことに4輪自動車による「レースとは何ぞや?どのように開催してどのように参加すべきか?」という思想は一旦リセットされてないに等しい状況で、主催者から参加者、観客に至るまで全て素人です。

観客はオートレースと勘違いして車券売り場はどこだと探し、参加者(ドライバー)はまだ貧しかった当時の日本で自動車が運転できるというだけで集まったも同然、主催者も規則の解釈が曖昧だったり運営の不手際があったりで、グランプリとは名ばかりの草レースでありました。

国産自動車メーカーが加盟している日本自動車工業会でも、レースはほとんど未知の分野だったことから、安全面や潰しあいを危惧して「ワークスチームを投入したり、レースを宣伝に使わない」という紳士協定を結んでおり、本来グランプリに対してメーカーは一線を引いて見守る立場だったのです。

つまりユーザーが自らの愛車で参戦する(ナンバーのないレース用車両という概念はこの当時なく、自走で来てレースを走り自走で帰るスタイル)のは止めないが、メーカー手ずからフルチューンした車に、メーカーが契約したプロドライバーを乗せるような事はしない約束でした。

もちろんレースの規則にそのような約束事はなかったのですが、ほとんどのメーカーが協定を守っていたところ、「そんな規則にもない約束を馬鹿正直に守る事はない。何なら今が最大のチャンスではないか」と張り切って堂々と協定破りをしたのがトヨタ。

トヨタはツーリングカーのC-II(401~700cc)にパブリカ、C-V(1,301~1,600cc)にコロナ、C-VI(1,601~2,000cc)にクラウンを参戦させましたが、いずれもサスペンションを固めて契約ドライバーを乗せ、形式上はともかく事実上の『トヨタワークス』で参戦したのです。

真面目に協定を守っていた各メーカーは、レース当日に『トヨタワークス』の姿を見て、唖然とするしかありませんでした。

メインイベントで独走する多賀 弘明のクラウン

レースはクラスごとに開催され、まず5月3日最終レースのC-Vクラスでトヨペット・コロナ(当時は2代目T20系)が多数のいすゞ・ヒルマンミンクスを振り切り、式場 壮吉を先頭に悠々の1-2-3フィニッシュ。

翌4日最初のC-IIクラスでもトヨタ・パブリカ(初代)が深谷 文郎を先頭に何と1~7位を独占し、三菱500やスバル450は排気量の差(パブリカは他の2台を200ccほど上回る697ccエンジン)もあって、全て下位に沈みました。

ここまではそもそものスペックや車格違いもあって、「ワークスだから勝てた」というほどのものではありませんでしたが、問題は4日の最終レース、つまりメインイベントとも言えるC-VIクラスです。

参加車はトヨタからクラウン4台(2代目S40系)、日産はセドリック3台(初代30系)、プリンスはスカイライン3台(初代LSI系)とグロリア2台(2代目S40系)、いすゞはベレル3台、これにフォード・タウナス17Mが1台加わった16台が決勝レースに出走しました。

数の上ではプリンスがもっとも多く、エンジンはタウナスを除きほとんど1.9リッターでベレルのみ2リッターでほぼ拮抗しており、各社自慢の最高級4ドアセダンによる争いは白熱するはずだったのです。

特にプリンスは最多台数の参戦ですし、クラウンより早く1952年には戦後初の本格乗用車『プリンス・セダン』を発売していた実績もあって、しかもグロリアは前年9月に発売したばかりの2代目でしたから、最新鋭セダンで勝てると本気で思っていたかもしれません。

気になるのは前年10月に発売したばかりの最新鋭、2代目トヨタ・クラウンくらいのものでしたが、レースがスタートするやそのクラウンがスルスルと前に出て後続を引き離しにかかるではありませんか!

他メーカーの車もレース向けに多少は手が加えられていたとはいえ、メーカーチューンでサスペンションをレース向けに固めたクラウンは明らかにコーナリングスピードが速く、少ないロールで軽やかにコーナーを駆け抜けていきます。対するライバル車はコーナーでは深くロールしてアンダーを出し、加速もリアを深く沈めて暴れる始末ですから勝負になりません。

プリンス勢は機体のグロリアが下位に沈んでモデル末期の同門スカイラインにすら抜かれる始末で、4ドア高級セダンでは新参(1960年)の日産・セドリックにすら置いて行かれてしまいます。このままレースは先頭を行く多賀 弘明のクラウンが独走で決めてしまうのか…と思われました。

ドリフトで攻めまくれ!逆襲のベレル

しかし、コーナーをなめるように快走する多賀のクラウンの背後からは、対照的にオーバーアクション気味にテールを流すドリフト走法で迫る4ドアセダンの姿がありました。

いすゞ・ベレル。戦前からトラックやバスの名門メーカーだったいすゞ自動車が戦後乗用車へ進出するにあたり、1953年からイギリスのルーツグループと提携、2代にわたり『ヒルマン・ミンクス』を最初は部品を輸入して組み立てるだけのノックダウン生産で、やがて全てを国産化したライセンス生産に切り替え、そこで蓄積した技術で1962年4月に発売した、同社初のオリジナル乗用車です。

プリンス、トヨタ、日産に続く国産車メーカーでは4番目の5ナンバーフルサイズセダンで、スピード感あふれる直線的デザインに三角形のシャレたテールライトや広々としたガラスエリアによる良好な視界など、当時としては華麗なヨーロッパ風デザインの高級セダンでした。

いすゞらしくディーゼルエンジン搭載車も設定され、燃料代の安さからタクシーなど業務用車ではそこそこ好評を得たものの、第1回日本グランプリでは95馬力の2リッターガソリンOHVツインキャブエンジンを搭載、90馬力1.9リッターOHVのクラウンよりスペックは上回っています。

もっとも、発売当初からヒルマン・ミンクスで自信を深めたはずの生産技術が追い付かず、品質不良の多発や貧弱な開発体制でライバルのように直列6気筒エンジンを積むなどできず、進化から取り残されたベレルはやがて大不人気車となってしまいますが、少なくとも第1回日本グランプリでは最新鋭のハイパワーセダンでした。

多賀のクラウンを追いかけたのは在日米軍のK.スウィッシャー中佐、もう1人在日米軍の軍人だったドン・ニコルス(後にシャドウ・レーシングを率いてF1に参戦)が駆るベレルと、吉田 隆郎が駆るタウナス17M。

特に迫力あふれるドリフト走法で攻めていたのはスウィッシャー中佐で、粗削りながら横向きに猛然とコーナーをクリアし、ほぼグリップ走法で無駄なく走る多賀のクラウンと対照的な走りながら、テールを突っつき回します。

しかしレーシングチューンを受けたワークス車とプライベーターマシンの差か、ドリフト走法でのロスが案外響いてしまったのか、アグレッシブな走りではあったものの最速ラップを記録したのはやはり多賀のクラウンです。

結果的に20周のレースがゴールを迎えた時、多賀のクラウンとスウィッシャー中佐のベレルの差は4秒7にまで広がっていましたが、3位の吉田タウナスはそれより約30秒遅れ、4位のニコルズが駆るベレルはさらに28秒遅れでしたから、別格の多賀クラウンを別にすれば、スウィッシャー中佐のベレルがいかに際立った速さだったかがわかります。

多賀のクラウンはレース中の平均速度が107.5km/hですから約5秒遅れ、約29m後方で猛烈なドリフト走行中のベレルが見えたはずですが、そのフロントマスクは『紳士協定破り』に対する怒りの形相に見えたかもしれません。

クラウンとベレル、日本グランプリでの檜舞台は最初で最後だった

結局、第1回日本グランプリはトヨタがワークス体制で参加させた全車が優勝、新聞広告でその成果を派手に強調し、販売合戦でも優位に立ちました。

収まらなかったのは協定を守った他メーカーで、特にプリンスは怒り狂って翌年の第2回日本グランプリにワークスチューンのスカイライン1500やグロリアS41でトヨタに圧勝。

おまけにスカイラインのフロントを延長してグロリア用直列6気筒SOHCエンジンをぶち込んだ『スカイラインGT』(S54)でスポーツカー部門のGT-IIクラス優勝すら狙い、マトモに戦ったらとても太刀打ちできないトヨタが送り込んだと言われるポルシェ904カレラGTSと大激闘を繰り広げます(結果はポルシェの勝ち)。

一方、クラウンとベレルは双方とも第1回のような成果は上げられずにパッとしない成績で終わりますが、この2台は後に大型4ドアセダンなどで戦われるストックカーレースで、セドリックやグロリアともども再び大激戦を繰り広げる戦友となるのでした。

第1回日本グランプリは最終レースでクラウンの圧勝とトヨタの『紳士協定破り』が有名になってしまっていますが、その少し後ろで激しいドリフト走法を『魅せていた』ベレルもまた、忘れられない1台です。