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ライバルメーカーなしでは盛り上がらない!モータースポーツ名勝負「名車スバル360に立ちはだかったスズライト・フロンテ」

ライバルメーカーなしでは盛り上がらない!モータースポーツ名勝負「名車スバル360に立ちはだかったスズライト・フロンテ」

戦後日本初の本格レースとなった1963年の第1回日本グランプリ。メーカー同士で決めたはずの紳士協定を堂々と破ったトヨタが参加全クラスで優勝したり、ヨーロッパのスポーツカーをこともあろうにまだ1.5リッター時代の日産・フェアレディ(SP310)がブッチぎったりとさまざまなドラマがありました。しかし排気量が小さく迫力で劣るのでは…と思われた400cc以下の軽自動車クラスもまたロマンの塊。下馬評をくつがえしスバル360を撃破したスズキの活躍は、猛省したスバルが翌年の第2回日本グランプリに向けて本気になるキッカケとなったのです。

第1回日本グランプリ最小の『軽自動車クラス』

1963年5月3~4日に開催された戦後日本初の本格4輪自動車レース『第1回日本グランプリ』。排気量ごとに分けられたクラスごとに11のレース(国際スポーツカーのみ1クラスで2レース)が行われましたが、初日3日の第1レース、C-1クラスは400cc以下のツーリングカー、つまり当時360ccだった時代の軽自動車で戦われました。

当時の軽自動車は1949年に規格策定後、初期のオートサンダル・FSやニッケイ・タロー・住江製作所・フライングフェザーや富士自動車・フジキャビンなどといった、志こそ高かったものの技術力が追い付かず、商業的には失敗したメーカーが短時間で消滅した頃。

1955年に発売されたスズキの『スズライト』が初の本格的軽乗用車と言われたもののまだまだ完成度は低く、ようやく性能的に安定し価格も手頃な『国民車』的存在のスバル360が登場したのは1958年の事で、それから5年後に開催されたのが第1回日本グランプリです。

鈴鹿サーキットのスターティンググリッド上に並んだ車もそうした状況を反映し、スバル360が7台とスズキ・スズライトフロンテが4台、マツダ・R360クーペが2台で、1961年にミニカを発売していた三菱はなぜか参戦せず、1966年にようやくフェローを発売するダイハツ、1967年にN360を発売するホンダの姿もまだありません。

この中で、わずか車重380kgとはいえ16馬力の軽オート三輪用エンジンを積んだR360クーペは「これでよく出てきてなというレベル」で、スズライト・フロンテは車重525kgと最重量級、スバル360は405kgでR360クーペほどでないにせよ軽く、フロンテ21馬力に対しスバル360は18馬力と多少馬力に差はありましたが、パワーウェイトレシオは断然スバル360有利でした。

すっかり油断しきっていたスバルチーム

なお、この時期のレースとはまだ「どのように参加すべきか、開催すべきか」が各社定まっておらず、主催者も規則をどうしたらいいかと右往左往している状態。しかも日本初の高速道路、名神高速すら開通前ですから、一部ヤンチャな人を除けば『高速走行経験者』そのものがほとんどいません。

必然的にドライバーも「ちょっとヤンチャで腕に自慢はあるつもり」「米軍基地内のレース経験者」「二輪でならレースをしたことがある」という集まりで、これにメーカーのテストドライバー的な人も加わりますが、まだほとんどのメーカーは専用のテストコースを持っていなかったので、まずエントリーした人を対象に鈴鹿サーキットを練習走行してもらおうという時代でした。

そして何が起きたかというと『事故多発』で、それもレース中の走りに関する何かというよりは「走ってたら何か壊れた」「パンクした」という類のもので、どうもレースがマトモに成立するかどうかも怪しい雰囲気。

そこで当初は距離を置いていた自動車メーカーや、タイヤその他関連メーカーがサポートに入って、どうにか『戦後日本初の自動車レースを成功させよう』という雰囲気に包まれていきます。

ただし、とにかくマトモに走れるようにしようとメンテナンスに協力する程度というメーカーから、公開練習でもパドックに姿を見せず何をしているのか不明なメーカーまで温度差があり、それが後々本番で響いてくることになります。

ここで本題となるスバルとスズキは対照的で、どちらも二輪のレーサーを『レース慣れしているから』と雇い入れているのは共通でしたが、スズキチームは鈴鹿へほとんど姿を見せず動静不明。

対するスバルチームはスバル360の開発や販売実績で大いに自信を深めていたところであり、さんざん走行実験を行い箱根の山も越え、普通車に負けない動力性能を持たせたスバル360が負けるわけがない…と、スズキチームの事など歯牙にもかけず、タカをくくっていました。

それはチーム編成にも影響しており、400cc以下のC-1クラスへ出場するスバル360には『割と普通のドライバーで問題なかろう』という配置で、エース級ドライバー2人は401~700ccツーリングカーのC-2クラスへ配置し、輸出メインのスバル450で、700ccのトヨタ・パブリカ相手にどこまで食いつけるか、あわよくば…と『捕らぬ狸の皮算用』をしていたのです。

秘密のヴェールを脱いだスズキチームに唖然!

しかし、4月28日の公式予選初日、公式練習のためついに鈴鹿サーキットへ現れたスズキチームに、スバルチームは唖然とさせられます。何しろ既にエンジンの排気音からして異なり、ノーマル同然の牧歌的な排気音で走るスバル360に対し、スズライト・フロンテは二輪のレーサー同様突き抜けるようなカン高いエキゾースト・ノートを響かせていました。

当然エンジンのみならずサスペンションもボディも全く異なり…つまりスバルチームは「ちょっとイジった市販車で勝つつもりでいた」ところ、「いきなりレーシングカーが出てきて驚いた」という、頭から冷や水をぶちまけられるような目にあったのです。
公式練習では1周6秒も差をつけられるのですから、もうお話になりません。

エース級ドライバーはスバル450に回してしまって今更変更もできず、仮に変更できたとて、スバルチームのエースドライバーの1人、大久保 力の師匠はスズキチームのエースドライバー、望月 修(大久保と望月は二輪だと同じスズキチームの盟友)ですから、車にこれだけ差がある状況では考えるだけ無駄です。

実際、5月3日の決勝は7周のスプリント・レースでしたが、望月を先頭に1-2フィニッシュを決めたスズライト・フロンテを相手に、かろうじて3位に入ったスバル360(村岡 三郎)は2位に約56秒もの差をつけられていたのですから、本線では1周平均8秒もの差をつけられていた事になり、文字通りレースになりませんでした。

半ば物見遊山程度の気持ちで『勝てるレースを楽しみにしてきた』スバルチームに対し、スズキチームは二輪のレースで得たノウハウをつぎ込みノーマル状態では不利なフロンテをしっかりチューンナップしており、しかも社内テストコースを持っていましたから、鈴鹿に来なくても走り込みは万全だったのです。

雪辱を期すスバルワークス始動!

第1回日本グランプリで勝利したチーム、ことにトヨタは新聞広告などで優勝をアピールして販売台数増加につなげましたが、逆にボロ負けしたチームはそれまでどれほど人気車種であろうとも、評価がガタ落ちしたことは想像にかたくありません。実際、スバルチームがグランプリでスズキに惨敗した事が知られるや、スバル本社にはスバル360ユーザーからの「どうなってるんだ!」という苦情が殺到しました。

しかしスバルチームもレース終了後からすぐ反省して気持ちを切り替え、何としても名誉を回復すべく本格的なワークスチームを編成、翌年の第2回日本グランプリで雪辱を期すことを誓います。

「市販車に毛の生えた車でノコノコ出て行った」のが惨敗の理由なのは明らかなので、エンジンをチューンしては耐えきれなくなったサスペンションやボディを固め、増強した出力に対して冷却が間に合わなければ、水をエンジン本体にスプレー噴射する直接冷却まで行い、最終的に最高出力38~42馬力、ストレートもコーナリングスピードも第1回とは大違いで飛ぶように走るスバル360が完成したのです。

ドライバーもスバル450での参戦をやめてスバル360に集中し、エース級以外はスタート後1周で1度ピットインし、頃合いを見計らって後続車を食い止めるサポート役に徹するというレース戦略まで組み立て、打倒フロンテに一丸となって燃えたのでした。

雪辱の日。スバル360、フロンテ、キャロル三つ巴の争いの末に

特に力が入っていたのはスバルのエース級契約ドライバー、第1回の時はスバル450をドライブしていた大久保 力で、スバル360特有の実質6速MT(副変速機つき3速MT)はわずらわしいからと通常の4速MTに載せ替え、代わりにファイナルギアをハイギアード化して1速で思いっきり高速まで引っ張りきることで、スタート直後からトップに立って以降はひたすら高速走行で走り切る戦略です。

ライバルは昨年に引き続き望月 修率いるスズライト・フロンテのスズキチームと、第2回日本グランプリでは『二輪の怪物レーサー』片山義美を擁するキャロルのマツダチーム。

4サイクル直列4気筒エンジンをフルチューンして重いキャロルへ十分な戦闘力を与えていた上に、ドライバーは片山ですから油断できず、スズキも望月ももちろん脅威です。

スタート直後は重い車重を補うためかなりローギアードの1速ギアを使うキャロルがリードしましたが、目論見通り1速で引っ張り切れる大久保のスバル360がトップに躍り出ると、2位の小関 典幸(スバル)が片山のキャロルも望月のフロンテも抑え込み、大久保のポール to ウィンで見事スバルチームが1年ぶりの雪辱を果たしました!

2位は小関、3位には望月が滑り込みましたが、既にアドバンテージが消滅したフロンテで表彰台ですから、これも大したものです(なお、片山も望月と同タイム)。

スバルがこれだけ本気になったのもライバルのスズキが第1回日本グランプリで『レースとは何か』を見せつけたためで、レースとはライバルあってこそ互いに切磋琢磨して進化していくものだということを、象徴するような出来事でした。

スバルもスズキもこの第2回を最後に日本グランプリから撤退、以降両社がレースで真っ向対決する機会は全くなくなりますが、これだけ大きな舞台で軽自動車メーカーが熾烈な争いを行うのも最後になったのは、残念なことです。