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ライバルメーカーなしでは盛り上がらない!モータースポーツ名勝負「日産R382 vs トヨタ7」

ライバルメーカーなしでは盛り上がらない!モータースポーツ名勝負「日産R382 vs トヨタ7」

かつて1963年から1969年まで開催された『日本グランプリ』ではメーカーの威信をかけたライバル対決が大きな見どころでしたが、中でもヘビー級の争いだったのがトヨタと日産の純レーシングカー対決でした。加えてポルシェやローラのマシンを擁するタキ・レーシングを加えて『TNT対決』とも言われたその年最大のレース、最後の対決となった1969年の日本グランプリでは、日産R382とトヨタ7(474S)が対決した結果、R382が2年連続の勝利を収めたのです。

ポルシェ904へ敗北した事で始まった、日産(プリンス)のレーシングカー開発

後世まで語り継がれる有名な『スカイライン神話』は、1964年に開催された第2回日本グランプリGT-IIクラスでの、スカイラインGT対ポルシェ904カレラGTSの戦いから始まっています。

この時、フロントを延長してグロリア用直列6気筒エンジンを押し込んだプリンス・スカイラインGTは優勝が確実視されていたものの、直前になってエントリーしてきたポルシェ904カレラGTSが一躍優勝候補に踊り出し、「勝てるマシンを用意できないトヨタからの視覚では」などと噂されました。

レースが始まってみると、所詮は大衆車に無理やりハイパワーエンジンを搭載したスカイラインGTとポルシェのレース用スポーツカーでは大人と子供ほども差があり、それでもドライバー間の打ち合わせでスカイラインGTが一周のみポルシェの前を走らせてもらえた事が、スカイライン神話の幕開けとなったのです。

しかし、神話はともかくポルシェのような車が出てくれば、国産車はどの車でも全く勝ち目がありませんから、プリンスではたとえポルシェであろうと一歩も引かずに戦える純レーシングカー開発を決定し、1965年にR380を完成させます。

同年の日本グランプリは中止されたため速度記録挑戦やマシンの熟成に費やしましたが、搭載された2リッターDOHCエンジンのGR8は後にデチューンされて初代/2代目スカイラインGT-Rへ搭載されるS20エンジンへ発展しました。

R380の方は1966年の第3回日本グランプリに出場、ポルシェ906を含むプライベーター勢や、トヨタが市販車ベースのレース仕様車を持ち込んだトヨタ2000GTに対してメーカーワークスが駆る純レーシングカーの貫録を示し見事に優勝。

プリンスが日産に吸収合併されたため日産R380となって挑んだ1967年の第4回日本グランプリでは、アクシデントにより生沢 徹のポルシェ906カレラ6に勝利をさらわれてしまいますが、その後も後継マシンのサポート役として1970年の日産ワークスレース撤退までは七続けました。

その後継マシンとは1968年からのオープントップ2座席・排気量や最低重量が無制限となるグループ7レーシングカーで、1968年の68’日本グランプリへ出場したR381。

R380用GR8を2基組み合わせて排気量アップした5リッターV12DOHCエンジンGRX-1(520馬力)搭載を想定した怪物マシンで、日本グランプリにはエンジンが間に合わなかったのでシボレーの5.5リッターV8OHVエンジン(450馬力)を搭載して出場します。

R381の特徴として、当時アメリカのシャパラルが先鞭をつけた超ハイマウントのリアウイングを装着した上で左右2分割の可動式ウイングとし、コーナリング時に左右独立で空力効果を発揮したり、減速時には両方作動させてエアブレーキにもできる優れモノ。

このR381で’68グランプリは危なげない走り…どころではなくトラブル続出ではあったものの唯一ノントラブルで走り切った北野 元が 生沢 徹のポルシェ910カレラ10を周回遅れにして優勝、この年のグランプリを制しました。

その後R381はGRX-1エンジンを搭載した本来の姿『R381-II』で他のビッグレースにも参戦、優勝を飾る活躍を見せますが、可変ウイングが禁止されたため後継のR382へ後を託すこととなります。

販売戦略重視で純レーシングカーに消極的だったトヨタ

第1回日本グランプリで各メーカー間の『紳士協定』を破り、ワークス体制で挑んで参加クラスの優勝を総ナメにしたトヨタ。
早速新聞広告でレースの成果を大々的に宣伝すると、販売台数へ確実に反映されていったので、結果的には『レースは金になる』といち早く気づき、実行に移した国産車メーカーとなりました。

その一方で早々とレースから撤退した富士重工(スバル)、レースもヨーロッパへ目を向けた東洋工業(マツダ)、小規模体制でじっくり参戦のチャンスを伺うダイハツ、なぜかフォーミュラカーへ転身した三菱と各社レースへのスタンスが分かれていきますが、トヨタと日産、プリンスは販売戦略上も国内レースでの活躍を重視していきます。

とはいえこの3メーカーもレースに対する取り組みは異なり、日産はフェアレディやブルーバードのスポーツモデルで、プリンスはスカイラインGTやR380で自動車メーカーとしての企業イメージアップへ…と言えば聞こえはいいのですが、どちらかというと『レースへのめりこむ』姿勢。

対するトヨタは市販車ベースで戦えるツーリングカーやGTカーでのレースに熱心で、あくまでレースは「市販車を売るためのもの」と捉えていたので、純レーシングカーを作ろうという考えはあまりありませんでした。

実際、コロナやカローラ、パブリカ、あるいはコロナベースのトヨタ1600GTによるツーリングカーレースや、トヨタスポーツ800、トヨタ2000GTといったGTカーによる耐久レースにはひどく熱心であり、市販車の形をした車でレースをする事が販売台数増加につながると考えていたのは明らかです。

このような考え方はトヨタ独特というものではなく、たとえばヨーロッパでもイタリアの大衆車メーカー、フィアットなどはランチア・ストラトスのようなラリーやレースに特化したスーパーカーでの活躍が本業の大衆車販売に結び付かないと大衆車ベースのアバルト131ラリーを好みましたし、ヨーロッパフォードなども同様でした。

ユーザーの方でも自分が乗る車や、せめて同メーカーの市販車が活躍してくれた方が嬉しいものでしたが、1966年の第3回日本グランプリでトヨタ2000GTが健闘して総合3位に入ったとはいえ、1-2フィニッシュを決めたプリンスR380に『打つ手もなくコロリとやられてしまった』感は否めません。

このままではレースでも販売でも現場の士気に関わる、とばかりに翌年の日本グランプリは欠場し、いよいよトヨタもグループ7レーシングカーの開発に着手しました。

そうして生まれたのが初代トヨタ7ことトヨタ415Sで、日産R381同様の2座席オープンスポーツレーシングカーでしたが、ヨーロッパでのレース参戦も考慮して3リッターV8DOHCエンジンを搭載したのが仇となり、5リッター級のエンジンを積むライバルに対しては終始アンダーパワーに悩まされてしまいます。

小排気量ゆえ燃費は良好で耐久レースでは優勝できましたが、日本Can-Amでは来日したアメリカのレーシングカー相手に『健闘した』と言える程度の活躍に留まり、トヨタにも5リッター級レーシングカーが必要なのは明らかでした。

1969年の69’日本グランプリで対決した日産R382とニュートヨタ7(474S)

いよいよ役者が出そろう事になった1969年、トヨタは前年の反省からF1用フォード・コスワースDFVを参考にした5リッターV8DOHCエンジン79E(公称530馬力)を搭載、サイドラジエター式としてフロントのデザイン自由度を上げ、空力特性を向上させたニュートヨタ7(474S)を投入します。

しかし日産はR381の可変大型ハイマウントウイングが使用不可能となった関係でダックテール形状を採用するなど空力的にリファイン、それだけでなくエンジンはGRX-1の排気量をさらに上げた6リッターV12DOHCエンジンGRX-3(公称600馬力以上)を搭載、開発が遅れたため発表はグランプリ数日前となり、結果的にトヨタへの『奇襲』となりました。

さらに5リッターV8のシボレー製エンジンを搭載するいすゞR7や、タキレーシングのポルシェ908/02および917、910、ローラT70、黒沢レーシングのマクラーレンM12を加えてレースは始まります。

当初は川合 稔のニュートヨタ7とジョー・シフェールのポルシェ917がリードしますが、6週目に高橋国光の日産R382がトップを奪還すると次第に差を広げて後続のR382も続き、1-2-3フィニッシュの表彰台独占でゴールする横綱相撲で、4~6位で続いたニュートヨタ7へ貫録の違いを見せつけました。

R380以来の蓄積を持つ日産と、経験が浅く見積もりの甘いトヨタの差というべき展開で、実際ニュートヨタ7はボディ剛性不足によりポテンシャルを十分に発揮できる状況になく、後にマクラーレンM12へ同じエンジンを載せて走らせたところ「断然走りやすい」とレーシングカー製作実績の差を見せつけられた形となったのです。

幻となった日産R383ターボ対トヨタ7ターボ

グランプリでの日産・トヨタ対決は引き続き1970年に持ち越し…となるはずで、実際に日産はR383、トヨタは3代目のトヨタ7(578A)を開発して精力的にテスト走行をこなし、日本グランプリで雌雄を決した後は、ともにアメリカのCan-Amシリーズへ乗り込む段取りでした。

しかし1970年6月、70’日本グランプリ(10月)を目の前にして日産は環境対策へ注力するため急きょグランプリ欠場を表明。
公称800馬力、実際には1,000馬力近い怪物級パワーを誇るトヨタ7ターボもライバルを失って同じく欠場し、結局参加車両が見込めない状態で日本グランプリは1969年を最後に開催されなくなりました(F1日本GPはまた別物)。

それでも両社はアメリカのCan-Am出場をあきらめずに開発を続行していたものの、8月のテストでトヨタ7ターボがテスト中にクラッシュして川合 稔が死亡する大事故を起こし計画中止、日産も後に続き9月にR383の開発計画は一度も参戦しないまま終了。

1963年の第1回日本グランプリ以来続いていたレースの熱は一瞬にして冷めてしまい、両社が再びワークス体制のレーシングカーでポルシェに挑み、あるいは雌雄を決するようになるのは、1980年代を待たねばなりませんでした。